Gewinner der Karl Max von Bauernfeind-Medaille 2016
Synthese
fatum 6 | , S. 29
Inhalt

ジンテーゼ、総合についての哲学的再考

Philosophisches Überdenken des Begriffes der Synthese

Japanisch

日本語でジンテーゼという用語は、かつてヨーロッパ哲学を学んだ古い世代の間では、テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(合)というトライアドで捉えられ、それが弁証法的思惟の基本とみなされることが多かった。特にそうした理解は、マルクス主義に共感するインテリに多く見られたと思う。そして多くの場合、その思惟様式はヘーゲルに由来し、マルクスとエンゲルスがそれを唯物論的観点で修正・完成したという通説が飛び交っていた。しかしそのような理解は、今日の若い世代では廃れてしまっている。したがって、本稿ではもっと別な観点、すなわち現在一般的に定義されている「多くの認識内容を一つの全体的な認識に統合すること」(ブリタニカ国際百科事典2008年日本語版電子辞書)という観点から、筆者が長らく親しんできたドイツ観念論で企図された哲学的な総合の意味と、現在コミットしている統合学におけるジンテーゼ(総合)の意味を再考してみたい。

ドイツ観念論における「全体的な認識への統合」としての総合の試み―その回顧的概観

一口にドイツ観念論と呼ばれる哲学的潮流を特徴づけるのは、「諸学問の分化を踏まえながらそれらを統合する」という意味での総合の営みであった。それらがどのようなものであったかを、概観してみよう。

Immanuel Kant
Immanuel Kant
Quelle: Public Domain USA: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Immanuel_Kant_3.jpg

まず、中世以来の伝統をもつ法学部、医学部、神学部では遂行不可能な「自由な批判的学問」を営む場として哲学部を位置づけたカントは、純粋(理論)理性批判、実践理性批判、判断力批判をベースにして、自然の形而上学、人倫の形而上学、宗教論、歴史哲学などの展開を試みた。カントにとって哲学とは、そのような学問の総称を意味し、それは「他の諸学問に体系的な統一を与える唯一の学」としてのスコラ的な概念と、「すべての認識と理性使用とが人間理性の究極目的に対してもつ関連についての学」としての世界市民的概念に分たれる。その上で彼は、後者の意味での哲学の根源的な問いの領域を、「私は何を知りうるか」「私は何をなすべきか」「私は何を望みうるか」と規定し、この三つの問いが究極的に「人間とは何か」という問いに収斂するとみなした1

そうした全体像の下でカントは、理論理性において、直観によって受容される多様なものを悟性の思惟作用を通して根源的・総合的に統一する人間認識の最高原理を「超越論的統覚 と呼んだ。それはあらゆる認識の客観的条件であり、それを欠いてはそもそも真の客観性は成り立ちえないものである2。しかし他方、実践理性において重要な役割を演じるの道徳的主体と、そうした超越論的統覚との統合に関しては論じられないままであった。

Johann Gottlieb Fichte
Johann Gottlieb Fichte
Quelle: Friedrich Bury, Public Domain: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Friedrich_Bury_-_Johann_Gottlieb_Fichte_1801.jpg

それに対しフィヒテは、1794年の『知識学』において、カントが論じた超越論的統覚をラジカルに存在論化し、それを「自我Ich」と名付け、さらにこの自我に対して自我以外の一切を「非我 と呼び、自我と非我の相互作用による「知の生成」論を展開した。すなわち、自我がまず絶対的な自発性に基づいて自らを定立し、次に自らを規定している動かし難いリアリティとしての非我を反定立し、その非我に自我が積極的に働きかけること によって、自我が非我を把握していくという論理づけで、知識一般の超越論的な生成論を展開した3。彼にあっては、存在論化された認識論が同時に倫理学でるような「知識と行為の統一」論が提示されたのである。

他方、若きシェリングは、フィヒテの構想に自然哲学が欠如していることを不満とし、フィヒテ流の自我の哲学とカント流の自然哲学の統合を企図した。電磁気学や化学の発展に見られるように、当時の自然諸科学はニュートン力学を超えた発展期にあった。シェリングはまず、カントの『自然科学の形而上学的始原』(1786年)と『判断力批判』(1790年)を超える自然哲学の展開を試みた。すでにカントは1786年の著書で、自然界における物質がそれ自身固定的な実体ではなくて、引力と斥力の統合体たる重力によって生成する空間の充満体であるという見解を示していた。これはカントが原子論者でなかったことを示している。だが彼は、アプリオリな学問として可能なのはニュートン的な数学的・力学的世界のみと考え、化学現象などは数学の適用不可能な故に単なる経験的実験術にすぎないとして学問の対象から除外し、また1790年の書では、有機的自然を普遍法則に従ってあてはめる「規定的判断力」によって捉えられる学問的対象ではなく、個々の特殊な対象の中にあたかも普遍的なものが存在するがごとくみなし「反省的判断力」の対象として扱ったに過ぎなかった。それに対しシェリングは、当時の自然科学のパラダイムに即しながら、人間を含めた自然全体を有機的に再構成するという大胆な企図によってカントの自然哲学の不備ないし限界を乗り超えようとする。そしてその際、彼が依拠した根本的な自然法則は、「二極性とその統一」による自然現象の生成という動的な法則であった。1798年から1800年にかけての自然哲学の諸著作の中で、シェリングは、力による物質の構成から、磁気、電気、化学現象、さらに生殖現象に至るまで、自然界の同一性には二極性が存在し、その二極性の統一によって自然現象が生じ、それが「質的階層性」をもたらすことを示そうとする。次にそれが光によって、感受性、感応性、再生産という特性を持ち、そしてさらに植物、動物、人間から成る有機的自然に高まる段階というように自然が階層化されていくヴィジョン、現代的に言えば「自然システム論」を、彼は当時の自然科学の最先端をいくパラダイム考慮しながら示しそうとしたのである4

そればかりではない。1800年の『超越論的観念論の体系』においてシェリングは、カントが拒否した「知的直観」という認識能力を導入しつつ、この自然システム論と自由な自我(精神)の哲学の統一を試みた。彼は、生成する自我の発展の最高段階において自然全体の合目的性を自らのうちに映し出す精神(知的直観)活動を芸術活動と同等視し、芸術を哲学のオルガノンとする美的観念論を展開する一方で、続く『動的過程の一般的演繹論』の中で、有機的自然の中の感受性が人間の精神において語られるという自然哲学を展開した。1802年にイエナ大学で講演され、翌年出版された『大学における研究方法』は、カントが『諸学部の争い』(1798年)で批判哲学の立場から擁護した大学における学問の自由を発展させたもので、当時の知識人に大いに影響を与えた書として名高い。それは、学問に携わるすべてのものが自らの知的直観を基にした哲学的営みによって諸学問のあり方を把握し、そのホーリスティックな光の中で神学、無機的自然諸科学、有機的自然諸科学、歴史的諸学問などの特殊性を把握しつつ、それぞれの専門領域を営むことが大学の本来の姿だとする壮大な学問論であり、1810年にベルリン大学を創設した当時の文部大臣W・フンボルトにも大きな影響を与えた。

Friedrich E. D. Schleiermacher
Friedrich E. D. Schleiermacher
Quelle: Public Domain USA: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:PSM_V65_D278_F_E_D_Schleiermacher.png

それに対して、神学者でもあり、人間に自然本性に即した倫理学を唱えたシュライエルマッハーは、シェリングの学問論を高く評価しつつも、他方でそこには倫理学に場が与えられていない点を批判し、自然学部門と共に、倫理学を総論とした教育学や国家学などの歴史的諸学問部門を設けることを唱えた上で5、それらをメタレベルで統合するような弁証法の展開をベルリン大学で試みた。それは、デカルトの第一哲学のように確固とした不動の第一原理を措定し、そこから諸学のあり方を演繹する手法は採らない。シュライエルマッハーの弁証法は、ある特定の学問知の有限な展望から出発し、その学問知における思惟と対象のあり方についてメタレベルから考察することによって、学問知の展望をより内容のあるものに高めるという手法を採る。すなわち、不完全で限られた知から出発し、より完全で体系的な知へ統合する術が弁証法であり、その弁証法によって諸学を営む主体はより包括的な知の展望へ至り、その展望の中で自らが営む学問の位相や特殊性を認識していく6。たとえば、自然諸科学から出発するとき、因果法則や普遍的諸力の概念によって自然界の諸対象(存在者)を記述する思考が、認識主体(科学者)の意欲や動機と結びついて働くことや、思考の対象たる自然的存在者の中に人間自身も含まれることを指摘することによって、弁証法は自然科学と倫理学を連関させる。そうした弁証法的術によって、自然科学者は自分の営む学問をより包括的な知に統合させることがことができるのである。他方、カントのような義務倫理学ではなく、(シュライエルマッハーが重きを置いた)徳倫理学や価値論理学から出発するとき、弁証法は倫理的諸概念が何らの存在者にも対応しないゾレン(当為)からではなく、人間の自然本性に根差し人間を含めた自然存在者に働きかけるような思考から形成されることを指し示す。そのことによって、倫理学と自然学の連関が計画になり、人は倫理学をより広い展望から見通すことができるようになると彼は考えたのである7

こうした思潮の最後を飾ったのがヘーゲルである。彼は晩年の大作『エンチュクロペディー』において、論理学、自然哲学、精神哲学の三大部門をから成る体系をシュライエルマッハーと同じベルリン大学で、総長を兼ねながら講義した。彼は論理学を諸々の学問のあり方を規定する思惟様式(方法論)に関わる普遍的学問として、全く無規定的で漠然とした存在者が思惟による否定的活動を通して新たな内容を肯定的に得ることを可能にするような「弁証法的・思弁的」論理学を学問体系の中枢に据えた。この論理学は、彼の学問体系のいわば文法にあたるものえあり、自然哲学と精神哲学の骨子をつくる。その中で「人間の自由」を本質とする精神哲学は、その発展度に応じて主観的精神論(人類学、現象学、心理学)、客観的精神論(政治経済学を含んだ包括的な法哲学、歴史哲学)、絶対的精神論(芸術、宗教、哲学)の順で展開されていく8

Georg F.W. Hegel
Georg F. W. Hegel
Quelle: Julius Sebbers (Litographie), Lazarus Sichling (Stahlstich), Public Domain: https://en.wikipedia.org/wiki/File:G.W.F._Hegel_(by_Sichling,_after_Sebbers).jpg

しかし、こうしたヘーゲルの試みには、その内部に見過ごすことのできない弱点を抱えていた。それは、彼の「絶対知」という思想である。ヘーゲルにおいて絶対知とは、「自己形成を遂げた主体が究極的に到達する場」であり、哲学が「他の諸学問を媒介する際に採られる観点」であった。そのような場ないし観点が先取りされていたため、ヘーゲル哲学は、後世の人々に唯我的で閉ざされた体系の印象を与えることになり、彼の死後崩壊することになったのである。カントに始まりヘーゲルに終わる学問の総合という壮大な試みはかくして終焉する。

「ポスト専門化の時代」における統合学の理念と方法

ヘーゲル死後の19世紀半ば以降の学問状況は、哲学が持っていた諸学を統合する志と力を失い、個別科学の専門化が進行していく時代となった。このような状況の激変にあって大学の学部構成も変化し、自然科学系の学部は、哲学部から独立し、政治学、経済学、社会学がたいていの場合、法学部の学科として独立する。それとともに哲学は学問横断的な意味を失い、アイデンティティの危機にさらされるようになった。19世紀半ば以降の状況全体は、「諸学問の哲学からの分離」が加速される様相を示している9

マックス・ヴェーバーがミュンヘンで1919年に行った有名な講演『職業としての学問』はそうした専門化時代の学問論を雄弁に物語っている。この講演でヴェーバーは、彼の同時代の学問状況を、過去に例がなく、今後続いていくであろう「専門化の段階」と規定した。彼の見解によれば、「真の存在への道」とか「真の芸術への道」とか「真の自然への道」とか「真の神への道」といった哲学的表現は、もはや正当化できない過去の遺物となった。なぜならば、「価値の多神教」という新たな時代が始まったからである。したがって、すべての学者に要求されるのは、自らの専門科目を職業として捉え、それに仕えるために、こうした新しい状況を理解し、それに(男らしく)耐える態度である。諸学問(諸科学)の究極的意味が何であるかという問いそれ自体は、学問(科学)には属さず、それぞれの生活に生きる個々人の解釈に委ねられなければならない。たとえば、(ヴェーバー自身が精力的に遂行して偉大な業績をあげた)文化科学(社会科学)は、政治的、芸術的、文学的、社会的文化現象を、その成立の諸条件から理解することを教えるが、それが理解されるに値するかどうかという問いに対して、文化科学自らが答えを与えることができない10。このような「学問の妥当性」と「生の意義」を峻別する二元論によって、ヴェーバーは、哲学の役割を、科学(学問)に影響力を与えることと切り離し、個々人の人生に対して取る究極的なスタンスの問題に限定したのである。

Max Weber
Max Weber
Quelle: Public Domain: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Max_Weber_1894.jpg

このような100年前のヴェーバーの学問論は、21世紀の今日、色あせたものとなっている。なぜなら、現代は、地球環境、平和、福祉、金融、財政、メディア、原子力、人工知能、生命倫理など多くの公共的問題が山積しており、それらの問題を論考するためには、学者には、狭い専門主義をのりこえる学際性と教養力が必要になるからだ。ここ15年余り筆者は、カント以降の学問の発展を次の三つの時代に分けることを提唱している11

  1. 哲学、特にドイツ観念論があらゆる学問の統合を試みた「プレ専門化」の時代。
  2. 諸学問の哲学離れが進行し、マックス・ヴェーバーがその進行を時代の宿命と明言した「専門化」の時代。
  3. 諸学問が自らの専門性を相対化しつつ、現代が直面する公共的諸問題と協働という形で取り組む「ポスト専門化」の時代。

 そうしたポスト専門化の時代においては、諸科学は自らの専門性の限界を超えて、現代の課題に立ち向かう一方で、哲学はもはや、現在の日本やドイツの大学で多く見られがちな過去の哲学を研究することにだけ関心を寄せるような専門学科(専門科目)ではなく、他の諸科目を横断・媒介する統合的なメタ科目として定位されるべきであろう。

 ではそうした現代において、諸学問の統合ないし総合という課題はどのような形で目指されるであろうか?筆者はこの問いに対してもここ10年以上にわたって、次のような「三重の方法」ないし「三重の観点」が必要となることを強調してきた。

すなわち、

  1. 過去と現在の社会的現実や現場に関する経験的調査。それは、「我々は何を知らなければならないか」という問いと結びつく。歴史社会学、政治社会学、経済社会学教育社会学、メディア社会学、科学技術史や科学技術社会学、医療社会学、宗教社会学など、広義の社会学系の学問がここで重要な役割を演じることになる。
  2. 現在と未来における社会に関する理念や規範理論。それは、「我々は何をなすべきか」という実践倫理的な問いと結びつく。ここでは、公正(正義)、共通善、人権などを論じる社会倫理学、政治哲学、規範的社会理論などが重要な役割を演じることになる。
  3. 未来における規範の実現可能性に関する政策論的な研究。それは「我々は何を遂行できるか」という問いと結びつく。政治、経済、教育、科学技術、メディアなどを横断する公共政策や社会政策が、ここでは重要な役割を演じるのは言うまでもない。

以上のような「三重の方法」を区別しながら統合する営みこそが、統合学 と呼ばれるにふさわしい。このような形の統合学こそが、「絶対知なきジンテーゼ(総合)」への試みであり、また真に実践理性と理論理性を総合する不断の試みだと筆者は確信している。

Japanische Pagode
Pagode in Ashibetsu, Hokaido, Japan
Quelle: 100yen, CCBYSA 3.0: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_fivestoried_pagoda_in_Ashibetu.JPG

Deutsch

Übersetzt aus dem Japanischen von Michael Santifaller.

Der Ausdruck „Synthese“ ist im Japanischen – genauso wie er früher bei den älteren Generationen in der europäischen Philosophie gelehrt wurde – der Triade von These, Antithese und Synthese entnommen. Viele betrachteten dies als Grundlage dialektischen Denkens; besonders Intellektuelle, die dem Marxismus nahestanden, waren, so glaube ich, oft dieser Ansicht. In vielerlei Fällen schwirrte auch die allgemeine Ansicht umher, diese Form des Denkens gehe auf Hegel zurück und sei von Marx und Engels unter materialistischem Gesichtspunkt nachgebessert sowie vollendet worden. Eine solche Auffassung kommt jedoch bei der heutigen jüngeren Generation mehr und mehr außer Mode. Dazu werde ich von einem noch ganz anderen Aspekt ausgehen, nämlich von der gegenwärtigen Definition von Synthese aus der japanischsprachigen, elektronischen Ausgabe der Encyclopædia Britannica, wonach Synthese Kern und Inhalt vieler einzelner Erkenntnisse zu einer gesamten Erkenntnis zusammenführt und vereinheitlicht. Demzufolge möchte dieser Aufsatz sowohl den philosophischen Begriff der Synthese, wie ihn der Deutsche Idealismus entworfen hat und wie ich ihn seit langer Zeit kenne, als auch den Begriff der Synthese, wie er heutzutage von der daran beteiligten integrativen Wissenschaft verstanden wird, nochmals überdenken.

Geschichte des Deutschen Idealismus

Das besondere Merkmal der mit dem Begriff Deutscher Idealismus bezeichneten philosophischen Strömung war das Betreiben hin zu einer Synthese aller Wissenschaften, obwohl diese sich voneinander unterscheiden. Lassen Sie uns im Folgenden einen kurzen Umriss dieser Strömung zeichnen.

Immanuel Kant war es, der sich als Erster für das Einrichten einer philosophischen Fakultät als einer freien und kritischen Wissenschaft einsetzte – neben den seit dem Mittelalter traditionellen Wissenschaften wie Jura, Medizin und Theologie, in denen dies nicht möglich war. Auf Basis der Kritik der reinen Vernunft, der Kritik der praktischen Vernunft sowie der Kritik der Urteilskraft, stellte Kant den Versuch an, Bereiche wie die Metaphysik der Natur, die Metaphysik der Sitten, eine Religions- und Geschichtsphilosophie zu entwickeln.

Kant verstand unter „Philosophie“ die allgemeine Bezeichnung einer Wissenschaft, die zum einen auf dem scholastischen Begriff der Philosophie basierte, als einzige Wissenschaft unter allen anderen den Wissenschaften selbst eine systematische Einheit zu verleihen. Zum anderen umfasste sie für Kant ebenso den weltlbürgerlichen Begriff einer Philosophie als Beschäftigung damit, inwiefern alle Erkenntnisse und Anwendung von Vernunft gegenüber dem Endzweck der menschlichen Vernunft in Beziehung stehen. Darüber hinaus legte er im letzteren Sinne auf dem Gebiet der grundlegenden Philosophie die drei folgenden Fragen Was kann ich wissen?, Was soll ich tun?, Was darf ich hoffen? fest, die er schließlich in der einen Frage Was ist der Mensch? münden sah.1

Vor diesem Hintergrund bezeichnete Kant in Hinsicht auf die reine, theoretische Vernunft die durch unmittelbare Erkenntnis empfangenen, vielfältigsten Dinge, die dann durch die Wirksamkeit von Intelligenz und Verstand grundlegend und einheitlich zum höchsten Prinzip von menschlicher Erkenntnis führen, als transzendentale Apperzeption. Das setzt für jegliche Erkenntnis objektive Bedingungen voraus; fehlen diese, so kann im Grunde genommen keine wahre Objektivität zustande kommen.2 Eine mögliche Vereinigung des bei der praktischen Vernunft eine wichtige Rolle spielenden moralischen Subjekts und einer solch transzendentalen Apperzeption, wurde jedoch nicht diskutiert.

Im Gegensatz dazu formte Johann Gottlieb Fichte im Jahr 1794 mit seiner Wissenschaftslehre Kants transzendentale Apperzeption zu einer Ontologie und gab dieser die Bezeichnung „Ich“. Ferner nannte er alles außer diesem Ich „Nicht-Ich“ und führte eine durch die Wechselwirkung von Ich und Nicht-Ich bedingte Argumentation über das Werden von Verstand. Mit anderen Worten behauptet das Ich sich zunächst basierend auf absoluter Spontanität selbst (These), wogegen sich hierauf das Nicht-Ich in Form einer das Selbst bestimmenden, unverrückbaren Wirklichkeit richtet (Antithese). Fichte stellte das Konzept auf, dass das Ich das Nicht-Ich erst begreift, indem es selbst aktiv auf das Nicht-Ich einwirkt (Tathandlung/ Synthese), wodurch es eine Argumentation über das transzendentale Entstehen von Wissen allgemein entwickelt.3 Auf diese Weise leitet Fichte eine synthetische Philosophie unter der Prämisse von Einheit von Wissen und Handeln ein.

Der junge Friedrich Schelling hingegen war mit dem Entwurf Fichtes mangels fehlender Naturphilosophie unzufrieden und beabsichtigte daher, die Kant’sche Art der Naturphilosophie und die Fichte’sche Art von philosophischem Ich zu vereinigen. Der Aufschwung von Elektromagnetik und Chemie ist Indiz dafür, dass sich die Naturwissenschaften dieser Zeit schon in einer Entwicklungsphase befanden, die die klassische Mechanik Isaac Newtons überschritten hatte. Zunächst versuchte Schelling eine Naturphilosophie zu entwickeln, die über Kants Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft (1786) und seine Kritik der Urteilskraft (1790) hinausgingen. In dem Werk von 1786 hatte Kant bereits seine Meinung zum Ausdruck gebracht, dass die Materie in der Natur an sich keine feste, unveränderbare Substanz, sondern ein infolge der Schwerkraft wachsender, räumlich angefüllter Körper sei, bestehend aus Anziehungs- und Abstoßungskraft. Das zeigt auch, dass Kant kein Atomist war. Aber laut Kant wäre es möglich, sich eine grundsätzliche Wissenschaft als eine auf Newton basierende, rein mathematische und mechanische Welt vorzustellen. Chemische Phänomene beispielsweise, deren Anwendung in der Mathematik undenkbar ist und die daher nur als empirische Versuche dienen können, werden nicht zum Gegenstand wissenschaftlicher Betrachtung herangezogen. Ferner verfolgt sein Werk von 1790 genauso wenig das Ziel einer wissenschaftlichen Betrachtung der organischen Natur unter allgemeinen Gesetzen und unter Anwendung der bestimmenden Urteilskraft. Es ist nicht mehr als der Ausdruck seiner Ansicht, dass unter einzelnen, speziellen Gegenständen solche mit universellen Eigenschaften und deren angewandter Gegenstand in Form der reflektierenden Urteilskraft existierten. Schelling hingegen versuchte die Grenze einer vollkommenen Naturwissenschaft bei Kant zu überwinden, indem er die gesamte Natur unter Einbeziehung des Menschen beruhend auf den naturwissenschaftlichen Paradigmen seiner Zeit in einem gewagten Vorhaben organisch umstrukturierte. Sein dynamisches Gesetz lehnte sich an die grundlegenden Naturgesetze an und besagte darüber hinaus, dass die Naturphänomene aufgrund von Polarität und deren Einheit entstünden. In all seinen Werken von 1798 bis 1800 zeigte Schelling auf, dass in der einheitlichen Natur – von der Materie, die sich unter Einwirkung von Kraft bildet, von magnetischen, elektrischen und chemischen bis hin zu reproduktiven Prozessen – eine Bipolarität existiert. Naturprozesse entstehen bedingt durch die Einheit der Bipolarität und bringen zudem eine Einteilung in qualitative, hierarchische Schichten mit sich. Als nächstes zeichnete er, unter Berücksichtigung von Paradigmen der zu jener Zeit an der Spitze stehenden Naturwissenschaften, eine Vision, die man gegenwärtig als Entwurf eines Systems der Naturphilosophie bezeichnen kann. Infolge der Einwirkung von Licht besitzt die Natur besondere Eigenschaften wie Empfänglichkeit, Erregbarkeit und Reproduktion. Überdies wird die Natur auf einer höheren Stufe organischen Lebens, das aus Pflanzen, Tieren und Menschen besteht, in einzelne Schichten unterschieden.4

Friedrich Wilhelm Schelling
Friedrich Wilhelm Schelling
Quelle: Christian Tieck (Gemälde), Public Domain: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:FriedrichWilhelmSchelling.jpg

Aber es blieb nicht dabei. In seinem System des transzendentalen Idealismus aus dem Jahr 1800 stellte Schelling den Versuch an, dieses System der Naturphilosophie mit dem unabhängigen Geist zu einer philosophischen Einheit zu bringen, während er gleichzeitig die von Kant als intellektuelle Anschauung abgelehnte Erkenntnisfähigkeit einführte. Beim Geist auf der höchsten Entwicklungsstufe spiegelt die geistige Aktivität die Zweckmäßigkeit der gesamten Natur aus sich selbst heraus wider (intellektuelle Anschauung) und wird, so Schelling, gleichermaßen als künstlerische Aktivität betrachtet. Einerseits entwickelte er daraus einen ästhetischen Idealismus, der die Kunst zum philosophischen Organ macht. Andererseits entfaltete er im Folgenden in der allgemeinen Deduktion des dynamischen Prozesses eine Naturphilosophie, die besagt, dass die Empfänglichkeit für Eindrücke innerhalb der organischen Natur im menschlichen Geist zum Ausdruck kommt. Im Jahr 1802 hielt er an der Universität Jena seine Vorlesungen über die Methode des akademischen Studiums, welche im darauffolgenden Jahr veröffentlicht wurde und als namhaftes Werk auf die Intellektuellen jener Zeit einen beträchtlichen Einfluss ausübte. Darin nimmt Schelling Bezug auf Kants Streit der Fakultäten aus dem Jahr 1798, in dem dieser vom Standpunkt der kritischen Philosophie aus die Freiheit an den Universitäten verteidigt hatte, und lässt diese Freiheit sich noch darüber hinaus weiterentwickeln. Alle in der Wissenschaft Tätigen sollten das Wesen der verschiedenen Wissenschaften durch philosophisches Treiben und unter einer eigenen intellektuellen Anschauung erfassen. In diesem ganzheitlichen Licht die Besonderheiten von Theologie, aller anorganischen und organischen Naturwissenschaften sowie aller Geschichtswissenschaften richtig zu begreifen und gleichzeitig die einzelnen Fachbereiche jeden für sich aktiv zu betreiben, das sei die eigentliche Form der Universität. Diese großartige wissenschaftliche Abhandlung beeinflusste auch den Gründer der Berliner Universität und damaligen Kultusminister Wilhelm von Humboldt stark.

Hingegen schätzte Friedrich Schleiermacher, der auch Theologe war und eine neue Ethik entwarf, die mit der Natur und dem wahren Charakter des Menschen übereinstimme, Schellings Abhandlung zu den Wissenschaften zwar sehr, kritisierte jedoch den Aspekt, dass darin der Moralphilosophie kein Platz eingeräumt werde. Er plädierte dafür, zusammen mit den naturwissenschaftlichen Fakultäten in alle umfassenden, historischen Wissenschaftszweige eine allgemeine Einführung in die umfassende Ethik einzubinden.5 Erstmals versuchte er dies an der Berliner Universität auf metaphysischer Ebene in einer Art sich integrierenden Dialektik zu etablieren und zu entwickeln. Schleiermachers Dialektik geht von einem beschränkten Überblick eines bestimmten wissenschaftlichen Verstandes aus. Er verwendete daher eine Methode, den Ausblick wissenschaftlichen Verstandes mit mehr Inhalt zu füllen und zu verbessern, indem er Gedanken und Gegenstand, so wie sie sein sollten, in Bezug auf den wissenschaftlichen Verstand von einer metaphysischen Ebene aus betrachtete. Ginge man nämlich von einem unvollständigen und begrenzten Wissen aus, so vermag das Verfahren der Dialektik dieses zu einem vollkommeneren und systematischeren Wissen hin zu integrieren. Durch die Dialektik gelangt das in allen Wissenschaften tätige Subjekt zu einem noch umfassenderen Wissensüberblick. Von einem solchen Ausblick erkenne man zunehmend die Struktur (Topologie) und die Besonderheiten der wissenschaftlichen Disziplin, die man selbst betreibe.6 Den Naturwissenschaften beispielsweise liegt der Gedanke zugrunde, alle Gegenstände der Natur (das Seiende) durch die Vorstellung der Gesetzmäßigkeit von Ursache und Wirkung sowie aller universeller Kräfte zu beschreiben. Aktiv verbunden mit dem Willen und der Motivation des Wissenschaftlers (des Subjekts der Erkenntnis) und unter dem Hinweis, dass in dem zu betrachtenden Objekt alles Seienden der Mensch selbst ebenso mit enthalten sei, lässt die Dialektik Naturwissenschaft und Ethik miteinander in Beziehung treten. Durch eine solche dialektische Methode könnten die Naturwissenschaftler, so Schleiermacher, ihr Wissenschaftsgebiet in ein noch umfassenderes Wissen integrieren. Geht man jedoch nicht von einer Pflichtenlehre aus wie Kant, sondern von einer Tugendlehre und von auf einer Güterlehre (Werttheorie) fußenden Naturwissenschaften, worauf Schleiermacher Wert legte, so wird die Dialektik in diesem Falle nicht aus all den ethischen Konzepten gebildet; vielmehr formiert sie sich aus einem Denken heraus, das der wahren, angeborenen Natur des Menschen entspringt und das auf alles natürlich Seiende einwirkt – den Menschen eingeschlossen. Was Schleiermacher sich damit überlegte, war der Plan, eine Beziehung zwischen Ethik und Naturwissenschaft herzustellen, sodass die Menschen einen weiteren und unverstellten Blick auf die Ethik bekämen.7

Der letzte Denker dieser geistigen Strömung war Georg Wilhelm Friedrich Hegel. Sein systematisches und umfangreiches Werk der späten Lebensjahre, die Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften, setzt sich aus den drei Hauptteilen Wissenschaft der Logik, Naturphilosophie und Philosophie des Geistes zusammen, und war zugleich Grundlage seiner Vorlesungen, die er neben seiner Funktion als Rektor an der Universität Berlin hielt. Er stellte die Logik, die sich mit den das Wesen aller möglichen Wissenschaftsbereiche festlegenden Denkmustern beschäftigt, als eine universale Wissenschaft ins Zentrum seines wissenschaftlichen Systems: Eine dialektische, spekulative Logik, die es möglich macht, dass ein gänzlich unbestimmtes und vages Dasein durch das Denken eine negative Aktivität „durchdringt“, überwindet und bejahend einen neuen Inhalt erhält. Diese Wissenschaft der Logik stellt gewissermaßen Hegels Wissenschaftssystematik, man könnte mit einem Wort auch treffend „Grammatik“ sagen, dar und bildet das Grundgerüst seiner Naturphilosophie und der Philosophie des Geistes. Die Philosophie des Geistes, die sich im Wesentlichen mit der Freiheit des Menschen auseinandersetzt, ist entsprechend ihrer Entwicklungsmäßigkeit der Reihe nach in drei Bereiche eingeteilt: Den subjektiven Geist (Anthropologie, Phänomenologie, Psychologie), den objektiven Geist (abstraktes Recht, Moralität, Sittlichkeit) und den absoluten Geist (Kunst, Religion, Philosophie).8

Jedoch enthält dieser Versuch Hegels im Inneren einen Schwachpunkt, den man nicht so einfach übersehen kann. Dabei handelt es sich um seine Anschauung eines absoluten Wissens. Bei Hegel ist das absolute Wissen der Ort, den ein das Selbst vollendet geformtes Subjekt letzten Endes erreicht – wobei er diesen Standpunkt zu einer Zeit einnahm, als die Philosophie Vermittlerin zwischen verschiedenen Wissenschaften war. Wegen der Vorausnahme eines solchen Ortes kam es dazu, dass Hegels Philosophie auf die Nachwelt den Eindruck eines solipsistischen und verschlossenen Systems machte und daher nach seinem Tod zusammenbrach. Das großartige Experiment, die Wissenschaften zu verbinden, von Kant bis Hegel, war hiermit zu Ende gegangen.

Wissenschaft der Postspezialisierung

Nach dem Tod Hegels verlor die Wissenschaft ab der zweiten Hälfte des 19. Jahrhunderts nach und nach Willen und Kraft, alle verschiedenen Wissenschaften zu vereinigen, so wie die Philosophie sie besessen hatte. Es begann ein Zeitalter, in dem die Spezialisierung der einzelnen Wissenschaften voranschritt. Im Zuge eines solchen Umbruchs veränderte sich ebenso die Struktur der universitären Fakultäten. Die naturwissenschaftlichen Fachbereiche, Politikwissenschaft, Wirtschaftswissenschaft sowie Soziologie wurden an den meisten Universitäten zu methodisch (und rechtlich) eigenständigen Wissensgebieten. Damit einhergehend verlor die Philosophie ihre übergreifende Bedeutung und sah sich einer Identitätskrise ausgesetzt. Ab der zweiten Hälfte des 19. Jahrhunderts bot sich im Ganzen ein Bild, in dem die Absonderung der Philosophie von allen anderen Wissenschaften im Eiltempo vorangetrieben wurde.9

Der von Max Weber im Jahre 1919 in München gehaltene, berühmte Vortrag Wissenschaft als Beruf erzählt in eloquenter Weise von dieser Ära einer spezialisierten wissenschaftlichen Diskussion. In dieser Rede bestimmt er in Stufen die Spezialisierung näher, wie sich die in der Vergangenheit beispiellosen wissenschaftlichen Verhältnisse seiner Zeit wohl von nun an weiterentwickeln würden. Seiner Ansicht nach waren philosophische Ausdrücke wie Der Weg zum wahren Sein, Der Weg zu wahrer Kunst, Der Weg zur wahren Natur oder Der Weg zum wahrhaft Göttlichen Überbleibsel einer Vergangenheit, die man schon längst nicht mehr rechtfertigen könne, da bereits eine neue Epoche mit einem polytheistischen Wertesystem begonnen hätte. Infolgedessen wurde von allen Wissenschaftlern gefordert, das eigene Spezialgebiet als Beruf aufzufassen. Um diesem Beruf zu dienen, solle man derartige neue Umstände begreifen und eine entsprechend mannhafte Haltung einnehmen, die diesem gerecht wird. Die Frage an sich, welche endgültige Bedeutung die verschiedenen Wissenschaften haben, gehöre nicht von der Wissenschaft beantwortet. Eine Beantwortung dieser Frage müsse vielmehr den jeweils ihr eigenes Leben lebenden Individuen überlassen werden.

Die Kulturwissenschaft lehre zum Beispiel, dass man die politischen, künstlerischen, literarischen und gesellschaftlichen Kulturphänomene von den jeweils verschiedenen Bedingungen ihres Zustandekommens aus verstehen solle. Angesichts der Frage jedoch, ob sie es verdiene, so aufgefasst zu werden oder nicht, könne die Kulturwissenschaft selbst keine Antwort geben.10 Durch einen solch streng unterschiedenen Dualismus der Gültigkeit der Wissenschaft und der Bedeutung des Lebens koppelte Weber die Rolle der Philosophie von der Einflusswirkung auf die Wissenschaft ab. Er beschränkte die Philosophie auf die Aufgabe, eine ultimative Position gegenüber dem Leben des einzelnen Individuums einzunehmen.

Eine derartige, von Weber vor 100 Jahren verfasste wissenschaftliche Abhandlung hat im heutigen 21. Jahrhundert an Glanz verloren. Der Grund dafür ist, dass sich in der Gegenwart viele allgemeine Aufgaben und Fragen – wie die globale Umweltsituation, Frieden, Wohlstand, das Geld- und Finanzwesen, die Medien, die Atomenergie, künstliche Intelligenz, Bioethik und andere – angehäuft haben. Um diese Probleme anzugehen und zu behandeln, benötigt ein Wissenschaftler die Fähigkeit, durch interdisziplinären Austausch über die Prinzipien seines begrenzten Fachgebietes hinaus zu denken. Seit mehr als 15 Jahren befürworte ich eine Einteilung der wissenschaftlichen Entwicklung seit Kant in die folgenden drei Epochen.11

  1. Zeitalter der Präspezialisierung, in dem die Philosophie – besonders der Deutsche Idealismus – den Versuch machte, alle möglichen Wissenschaften zu vereinigen.
  2. Die Abkehr aller Wissenschaften von der Philosophie schreitet voran. Max Weber erklärt dieses Fortschreiten klar und deutlich als Schicksal dieser Ära und nennt es Zeitalter der Spezialisierung.
  3. Zeitalter der Postspezialisierung, in dem die verschiedenen Wissenschaften dabei sind, ihr eigenes Spezialgebiet zu relativieren, und bemüht sind, angesichts gemeinsamer Probleme zusammen zu arbeiten.

 In einem solchen Zeitalter der Postspezialisierung sollten die verschiedenen Wissenschaften einerseits die Grenze ihres eigenen Fachgebietes überschreiten und die gegenwärtigen Themen in Angriff nehmen. Andererseits ist die Philosophie, wie es heutzutage noch an japanischen und deutschen Universitäten häufig aufgefasst zu werden scheint, schon längst keine Fachwissenschaft mehr, die lediglich der Erforschung vergangener Philosophien Interesse entgegenbringen sollte. Als ein integratives Meta-Fachgebiet sollte die Philosophie sich eher an ihrer Aufgabe als Vermittlerin zwischen anderen Wissenschaften orientieren.

In welcher Form sollte dann an diese Aufgabe einer Synthese der verschiedenen Wissenschaften herangegangen werden? Seit mehr als 10 Jahren setze ich mich mit dieser Frage auseinander und betone daher nachdrücklich die Notwendigkeit der folgenden dreiteiligen Methode:

1. Durchführen einer empirischen Untersuchung der sozialen Gegebenheiten und Orte des Geschehens in der Vergangenheit und in der Gegenwart und diese dann mit der Frage Was müssen (sollten) wir wissen? verbinden. Eine wichtige Rolle spielen werden hier die historische Soziologie, politische Soziologie, Wirtschaftssoziologie, Bildungs- und Erziehungssoziologie, Mediensoziologie, geschichtlichsoziologische Wissenschaft und Technologie, medizinische Soziologie, Religionssoziologie sowie im weiteren Sinne an soziologische Systeme angebundene Wissenschaften.

2. Aufstellen von Prinzipien und genormten Theorien, die die Gesellschaft in der Gegenwart und in der Zukunft betreffen. Diese sollten wiederum mit der auf eine praktische Ethik abzielenden Frage Was sollten wir tun? verknüpft werden. Hierbei wird der Moralphilosophie, der Politikphilosophie, der normativen Gesellschaftstheorie und anderen, die sich mit Gerechtigkeit, Gemeinwohl und Menschenrechten befassen, eine bedeutsame Rolle zukommen.

3. Etablieren einer Forschung mit politischer Kontroverse in Bezug auf die Realisierbarkeit von Standards und Normen in der Zukunft, die mit der Frage Was können wir verwirklichen? zu verbinden wäre. Natürlich werden an dieser Stelle allgemeine politische Maßnahmen und eine Sozialpolitik, die es versteht, die unterschiedlichen Bereiche von Politik, Wirtschaft, Bildung, Wissenschaft und Technologie, Medien und andere zu überschreiten und miteinander in Einklang zu bringen, eine bedeutsame Rolle spielen.

Obwohl, wie oben angeführt, zwar in eine dreiteilige Methode unterschieden wird, ist es dennoch passend, gerade das vereinigende Treiben als integrative Wissenschaft zu bezeichnen. Ich bin überzeugt davon, dass gerade eine integrative Wissenschaft in derartiger Form ein Versuch hin zu einer Synthese ohne absolutes Wissen ist und dies darüber hinaus in der Tat das unaufhörliche Experiment, praktische und theoretische Vernunft zu vereinheitlichen, darstellt.


  1. Immanuel Kant, Logik: Ein Handbuch zu Vorlesungen (Hamburg: Felix Meiner, 1904).
  2. Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft (1781), A131f.
  3. Johann G. Fichte, Grundlage der gesamten Wissenschaftlehre (1794).
  4. Friedrich W. H. Schelling, Von der Weltseele, Erster Entwurf eines Systems der Naturphilosophie (1798).
  5. Friedrich W. D. Schleiermacher, Rezention von F.W.J. Schelling :Vorlesung über die Methode der akademischen Studium, Jonas und DiltheyⅣ, Briefe (1863), 579–593.
  6. Friedrich W. D. Schleiermacher, Dialektik, 1811, 6f.
  7. Friedrich W. D. Schleiermacher, Dialektik (1814/15), 54f, 61f.
  8. Georg W. F. Hegel, Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften in Grundriße, Bd. 3 (1830).
  9. Herbert Schnädelbach, Philosophie in Deutschland 1831–1933 (Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1983).
  10. Max Weber, Wissenschaft als Beruf (1919).
  11. Naoshi Yamawaki, Philosophie und Ethik für die integrale Gesellschaftstheorie und die nachhaltige Gesellschaft, Daisenonji e.V und die Deutsche Akademie der Techikwissenschaften acatech; Integration als globale Herausforderung der Menschheit, J.H.Röll (2012), 173–188; The Global Public Philosophy – Toward Peaceful and Just Societies in the Age of Globalization (Lit Verlag, 2016), 11–14.

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